インドで考えたこと – 堀田善衛

インドで考えたこと」は堀田善衛が第一回アジア作家会議(1956年12月)に参加したときのことを、そのときどきに感じたことを綴った紀行。インドで考えたこと (岩波新書)

どういう本かというと、子どもたちが高校生ぐらいになったらトライして欲しい本。トライに失敗したら10年ほどおいてまたトライしてみて欲しい本。

以下、時代背景や引っ掛かりのあった部分の引用などを、この本の構成と同様にまとまりのないままに放り出しておく。

会議の準備から終了までといった時系列にそっているわけでもなく、そのときどきに考えたこと、感じたことをポンと放り出したような構成。一番最後の章はまとめらしいといえば、そういえなくないけれど、この部分はだいぶ後で書いたんじゃないか。あまりの無構成が心配になって付け足したような気もする。
つまり、この本はどの章から読んでもいいし、頭に入ってこないところは読み飛ばしてもいいと思う。それぞれの章で堀田善衛の感じたことが、自分に引っかかったならば、そこを味わってみるといい。

インド紀行といえば僕の中では三島由紀夫の「暁の寺」。豊饒の海四部作の第三部「暁の寺」は小説なのだけれど、語り手のインドを語る様子は三島のインド紀行そのもの。僕にとっては後にも先にもこれしかなくて、インドのイメージはマニカルニカ・ガート。
ガンジー、ネルー、釈迦、ラマヌジャンといった個人名とそのエピソードは知っているけれど、それ以外のインドについては何も知らない。
でもよく考えてみれば、僕が他国のことをどれぐらい詳しく知っているかといえば、インドのことは比較的よく知っている方なんだろう。例えばブータンのことは何も知らないし、マラウイ(アフリカ大陸南部の国)となると今Wikipediaで初めて知った。

この本の初版は会議参加翌年の1957年。
1957年は岸内閣成立の年。翌1958年は、東京タワーが完成して、長島茂雄がプロ野球デビューして、正田美智子さんと皇太子明仁親王の婚約が発表された年。だいたい映画「東京タワー」の頃のこと。戦後昭和のど真ん中辺りのこと。僕の生まれる十年前のこと。

読みながらメモしておきたくて貼った付箋が20カ所ほどある。ときどき思い出したらこの後に引用を追加しておこう。自分用の索引として。

夏目漱石が和歌山県で明治44年(1911)8月に行った講演「現代の開化」を引いて。

私の頭に二六時中浮かんでいたものは、異様なことに、いまから四十七年もむかしに夏目漱石が和歌山で述べた『現代の開化』と題する講演の節々であった。
「西洋の開化(即ち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。」
「日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流で其波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新しい波が寄せるたびに自分が其中で食客をして気兼をしている様な気持ちになる。」
「我々の遣っている事は内発的でない、外発的である。是を一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるという事に帰着するのである。・・・併しそれが悪いからお止しなさいと云うのではない。事実已むを得ない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。」
とびとびに引用すれば、こういうようなことになる漱石のことばが、いつも私の頭にこびりついていた。

この漱石の講演での発言に対するシンパシーは、本書を通してずーっと何度も何度も繰り返される。

バスを乗り継いで田舎の農村を訪ねる小旅行へ。道中のバスで乗り合わせた老人との会話。

「水はないの?」と私。
「流れる水はない」とバスの相乗りの老人。
「でも雨期には降るでしょう」
「いくらかはね。でも、一年にやっと二十インチ(五百ミリ)くらいだから、河に入るまでに乾いてしまうか、土地に吸い込まれてしまう」
「灌漑は?」
「そのうちネルーがやってくれるだろう。しかし、どこから水を引いたものか?」
「だけど、水なしでどうやって生きているの?」
「井戸がある、そら・・・」
小さな塚のように土を盛り上げ、そのいただきに井戸枠がはめこまれ、牛がそのまわりをグルグルゆったりとまわって地下水を汲み上げている。
・・・二千年前もまたこうだったのだろう。

この老人は国民会議派とともに独立の為に戦い何度も牢屋に入った経験もある国際情勢にも詳しい人。

老人との通訳をかってでた青年の会話。

青年は教育普及のスピードがのろいこと、独立してからわずか十年であり、英国は百五十年もここにいて、いかなる意味でも教育をしなかった、純粋の搾取一本槍であったことなどを話す。
すると老人は青年に向かって、日本は教育が普及している、文盲はいない、自分は日本の農業技術者のインド農業についての話を読んだ。日本の農業技術は世界一だ。われわれは学ばねばならない。するとそれをうけて青年が私に云う。
「われわれは貧しい。しかし五十年後には—」と。
五十年後の日本—私はそんなものを考えたこともないし、五十年後の日本について現在生きているわれわれに責任があるなどと、それほど痛切な思いで考えたこともない。
われわれは日本の未来についての理想を失ったのであろうか。

1956年のことだから50年後は2006年。今年は2010年。もう50年経ってる。54年前のこの青年は今どうしてるんだろ。生きているなら今のインドをどう見ているんだろ。
僕は最近時々考えるなあ五十年後のこと。やっぱり子どものことを考える。